オーソドックス聖堂では、ギリシャも、アルメニアも、コプトも、ロシアもミサが捧げられる祭壇はイコノスタシス(Iconostasis:イコンの衝立て)で遮られ、「聖域」とされています(写真1)。ミサ中は当然ですが、24時間、絶対の聖域として確保しています。聖墳墓修道院に勤務するようになった当初、カルヴァリオからギリシャ祭壇の写真を撮っていたら、カルヴァリオ担当のギリシャ修道士が扉の鍵を開けてくれたので、祭壇の近くで撮っていました。すると、お墓の前に立っていた別の修道士が飛んできて、強い口調で出る様にと、そして、内陣に入る為にはエルサレム総大主教(Patriarcha)の許可を受けてからにして欲しいとも付け加えました。
日本人は「聖域」を「神がおられるところで、敬いかしこみ、あるいは、たたりを恐れて立ち入らない」と理解すると思います。キリスト教会の理解は、聖書にもとずき「世俗的使用から区別し、神の為にのみ使う領域」です。人々の「主体的奉献」がもととなっています。
オーソドックスのイコノスタシスの先は、この様な意味で、ミサを捧げる為にのみ使う聖所として奉献されているのです。ギリシャ教会は、このイコノスタシの他に「結界」として、ポルテイコ(Portico)やオックタスタイル(Octastyle:ギリシャ神殿前の八連柱)で、俗地と聖域とを区別しています。(日本では神社の鳥居、茶道での「扇子」)。
第二ヴァチカン公会議前のカトリック聖堂では聖体拝領台が「結界」の意味があり、その先は「内陣:プレスビテリウム(Presbyterium)」と言って、祭儀を行うところでした。祭儀中は聖職者(侍者)以外は立ち入ることはありませんでした。
公会議の典礼改革はこの「内陣」を取り除きました。そして、すべての信者が祭壇を取り囲むことが出来るようになりました。その結果、キリスト復活大聖堂でも、お墓でのミサに人々が中に入ってきます。しかし、日に一度の修道院ミサ(その日唯一の歌ミサ)では公会議以前からの慣習を守って、お墓はもちろん、手前の高台、フランシスカンコールスには共同司式者、侍者それに修道服を着たフランシスカン以外は立ち入いることを許していません。 信者席はトランセプトに用意します。お墓(西)とコールス(東)の空間を聖域とし、南北が信者席になります。この聖域設定は修道院ミサの時と大聖堂内での毎日のキリストの受難、死、復活を記念する行列の時です。旅行者はもちろんですが、カトリック信者も聖堂から内陣を取り除き、そして、宗教心においても聖域を考えなくなったので、聖墳墓の「聖域」理解が出来ず、「聖域」保持に苦労しています。 そして、先日、天声人語に「日本人の空間感覚」の変化についてのコラムがありました。(Web;6月27日)。「滴りのゆくえに気を使う」このごろ、電車の中で、横腹が痛いので見たら、傘の切り口が当たっていた。払いのけたら、傘の持ち主から、わびの言葉どころか、睨み返された。と話を起こして、「自分の周囲は真空」と見、「傍若無人」の人間を見かけると、ありました。
私は「豊かさ」が空間の専有を許し、空間の共有を失わせたと考えています。二間、三間の生活では家族はだれ一人として自分固有の空間を持たず、八畳の間が、四畳半の間が家族全員の空間でした。また、八畳の間が客を迎える場であり、家族団欒の場であり、寝室でもありました。同じ空間が時と場合とで、異なる意味を持つことが当然でした。
お墓前は参拝者でいつもこの様ににぎわっています(写真2)。しかし、行列でキリストの復活を記念する時は両サイドに会員が並んで、神聖な空間を醸し出します(写真3)。地鎮祭等で、しめ縄を張って祭場としているようなものと考えています。聖域には神を礼拝するためのもっとも神聖な「絶対的聖域」と祭儀を行う都度の「相対的聖域」とがありましたが、現在ではどちらをも確保することは大変です。これは人を、ものを、時間を、空間を神に奉献しなくなった現われではないでしょうか。
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