献堂記念日

7月15日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

 7月15日は私たちカトリック教会のキリスト復活大聖堂献堂記念日です。
エルサレムを包囲していた十字軍は城壁の北側(ニューゲートとダマスコゲート辺り)を乗り越えて突入し、その日のうちにエルサレムを占領しました。そして、1099年7月15日、聖墳墓でミサを捧げました。これがキリスト復活大聖堂での最初のローマ典礼によるミサでした。その後、1149年、マルテイリオン(Martyrion)にロマネスク様式の大聖堂を献堂しました。これが現在のカトリコン(Kathorikon)です。

 しかし、1187年、十字軍はサラデイン(Saladin)に敗れ、再びエルサレムを取り戻すことは出来ませんでした。十字軍の庇護を失ったキリスト教大聖堂、修道院は次々に破壊されました。しかし、キリスト復活大聖堂だけは破壊を免れました。それは、身の危険を冒し、多額の税の取りたに苦しみながらも、世界各地からの巡礼者が跡を絶たなかったからです。このため、1346年、ローマ教皇は勅令でこの大聖堂をフランシスコ会に委ねました。以来、多くの困難に遭遇しながらも、時には投獄され、時には追放され、時には殉教して、キリスト復活大聖堂でのカトリック教会の場を保持してきました。

 十字軍運動について、最近の研究から、略奪、殺戮等が明らかにされたため、以前のように、「聖戦」と評価しなくなったようです。5月、ローマ教皇がギリシャを訪問した時、第四次十字軍がコンスタンチノープルを攻略したことを謝罪したとの記事がありました。
十字軍がエルサレム占拠と同時にイスラム教徒に対する虐殺を行ったことは事実です。首のない死体、手足をもぎ取られた死体はまだ市内に取り残され、血のまだ乾かない中でのミサであったかもしれません。しかし、この様な十字軍の残虐行為があったにせよ、十字軍が,一時期、イスラム教徒からエルサレムを取り戻し、巡礼の道を確保したことはキリスト教社会にとって無上な貢献でした。この評価は歴史を通して変わることがありません。
Basilica
 最近、中学歴史教科書検定問題に絡んで、中国、韓国との関係が問題になっています。歴史、物を言わぬ過去の出来事は見る立場から異なる解釈がありえます。唯物史観によれば、出来事からの解釈は唯一となるのでしょうが、生活の場では出来事はいくようにも解釈されます。だから、たとえば、加害者と被害者とでは自由に意見が言える環境がより大事であり、互いの意見を尊重することが求められているのではないでしょうか。日本はやっと最近、国家の思想統制から開放され、多様な解釈を認め合う社会になったばかりです。
写真説明:(1)Basilica
一年前の賑わいです。昨年の10月以来、この様な賑わいは見られません。入り口左がロマネスク様式固有の鐘楼です。しかし、再度イスラム支配になって、鐘楼の上部は破壊されました。オットマントルコが倒れた後、ギリシャ教会が鐘楼を復元せず、破壊された状態で鐘楼として使っています。中央の入り口が大聖堂唯一の出入り口です。12あった出入り口はここを除いて全て塞がれました。イスラム教徒によって巡礼者の出入りを管理するためです。右がその状態です。その右側の階段は直接カルヴァリオに登るものでした。塞がれた後、踊り場をチャペルフランクとして、カトリックが使っています。
平面図写真説明:(2)大聖堂平面図
右がコンスタンテイヌス創建の救い主受難・復活の大霊廟(Mausoleum)と大聖堂(Basilica)です。Martyrion(カルヴァリオを左隅に三方を回廊で囲まれたところ)に十字軍が大聖堂を建て、南側を出入り口としました。左が十字軍後の大聖堂平面図です。(画像をクリックすると大きな図が出てきます。)

アンジェロ春山勝美神父