タボル山に行きました。(写真:正面)。
タボル山は北イスラエルのエスドレロン平野の東にぽつんと立つ、ゼブルン、イッサカル、ナフタリの境界で三国山です。山頂からはパノラマが楽しめます。
この山を聖書が最初に伝えるのは士師記4章です。そのころ(BC1125)、北イスラエルはハツエル(Hazor)の王ヤビンに蹂躙されていました。神はカナン人からイスラエルを開放するために女預言者デボラを通してバラクを選びました。バラクはイスラエルの勇士たちをタボル山に集め、押し寄せるカナン王ヤビンの将軍シセラを迎え撃ち、勝利しました。以来、タボル山は多くの戦闘にその名を記しています。紀元前218年、アンテイオコス3世(Antiochus)は攻め込んできたエジプト軍を、また、紀元67年、ユダヤ人はフラビウス ヨセフの指導のもと、山頂に40日間で城壁を築き、押し寄せるローマ軍を打ち破っています。十字軍との戦闘も幾度かありました。
タボル山は戦略上重要であったばかりでありません。この山はキリスト信者にとっては掛け替えのない「キリストご変容の聖地」です。
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。・・・(マタイ17.1-13;マルコ9.2-13;ルカ9.28-36)」。この「高い山」がタボル山です。キリスト教時代(ビザンチン)、多くの巡礼者が訪れるようになりました。6世紀半ばには三つの聖堂が建てられていたと記録にあります。その後、イスラム教徒となったアラブ人がこの地をせっけん(席捲)し、支配するようになりました。そして、彼らは聖堂や修道院を破壊し、キリスト信者の巡礼を許しませんでした。それで、十字軍運動が起こり、1099年、十字軍は聖地をイスラム教徒から開放し、タンクレイ(Tancred)はタボル山に修道院を建て、ベネデイクト会に委ねました。
しかし、1113年、トルコ系イスラム教徒は修道士たちを虐殺し、修道院を破壊しました。それでも、まもなく、新たな修道士たちは修道院を再建し、そしてこの度は城壁で囲み、要塞化しました。このため、1183年のサラデイン(Saladin)の攻撃には持ちこたえることが出来ました。しかし、1187年7月、ハッティンの角で十字軍が敗れてからは、勢いづくイスラム教徒の攻撃に敗れ、修道院は陥落しました。
イスラム支配者メレクエル-アデル(Melekel-Adel)は第4次十字軍(1202-4)の噂を聞き、占拠した修道院を破壊し、ここをより堅固な要塞とする計画を立て、その息子メレクエル-モウアザム(Melekel-Mouadzam)が、第五次十字軍(1217-21)を迎え撃つため、その計画を実行しました。1217年、十字軍は17日間包囲しましたが、攻略できませんでした。しかし、翌年、アデルはキリスト信者は必ず来ると確信し、修道院を破壊して撤退しました。その後、キリスト信者は協定に基づき、住み着きましたが、1263年、バイバー(Bayber)によって、修道院は完全に破壊され、修道士たちは追放されました。このバイバーがナザレ、タブガ、カファナウム等の修道院、教会をも破壊したのです。
そして、400年が経過し、1631年、フランシスコ会はこの聖地の南側半分を、ギリシャ・エルサレム総大主教区が北側半分をイスラムの支配者から買い取りました。山頂は水堀と城壁とで要塞となっていました。(写真2:銃眼)。(写真3:西北の城壁)。また、イスラム支配者は、修道院・聖堂の跡地に王女のために離宮を作りました。母屋から庭に通じる階段です。(写真4:南側斜面)。
19世紀後半、フランシスコ会考古学者は、山頂南側東寄りに、この離宮跡を発見しました。そして、ビザンチン時代の聖堂跡を特定しました。現在の聖堂が当初の聖堂の遺構の上に建てられたものであることが東側からよく分かります。(写真5:遺構の上)。
古くは、山頂への道は東側からでした。そして、十字軍時代は南側からでした。そして現在は西側からです。この道は麓のイスラム教徒の部落を通過しています。これは、兄弟たちが日頃彼らと仲良くしていたので、開通したと聞きました。第一の門をくぐり、ヘアーピンカーブ登りつめると、1897年に造られた「風の門」です。ここはアデルの砦です。
150メートル進むと右側に、小さなチャペルがあります。ビザンチン時代の土台の上に建てらたものです。ご変容の後、山を下る前、イエスは弟子たちと一夜を過ごし(ルカ9.37)、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じ、復活に就いて、エリアに就いて、人の子の受難について、語られたことを記念する聖堂です。(マルコ9.9ss)。
また、イエスが麓に残した弟子たちのところに帰えると、大勢の群集が迎えたとあります。ある父親がひとり息子が悪霊に取りつかれ、ひどく苦しませるので、治してもらうため弟子たちのところに連れて来ました。しかし、彼らでは悪霊を追い出すことが出来ませんでした。イエスは「なんと信仰のない、よこしまの時代なのか。・・・」と嘆き、父親が「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言うと、「『出来れば』と言うのか。信じる者には何でもできる。(マルコ)」と言い、ひとり息子を悪霊から開放した所が現在のダッブリヤ(Dabbriya)とされています。(マルコ9.14-27;ルカ9.37-43;マタイ17.14-18)。タボル山の西の麓です。(写真6:Dabburiya)。それに、南方向には、やもめのひとり息子を生き返らせたナイムが見えます。(ルカ7.11-17)。そして、大聖堂前、左側の遺跡がベネデイクト会修道院です。
さて、。大聖堂は1924年に献堂されました。ローマ・シリア様式です。正面はイエスとモーセとエリアのため、幕屋を建てると言ったペトロのことばを連想させます。大聖堂内のメイン祭壇は主のご変容の場所です。(写真7:午後六時)。この上にも祭壇があり、アプセスはご変容のモザイクです。(写真8:午後六時半)。上と下との構造はキリストの神性と人性を表現し、まさに、ここでの出来事の信仰表現なのです。
ところで、今回、ご変容の記事を読み比べて、大きな発見がありました。聖書の記事には珍しく、冒頭に「六日の後」とあり、直前の出来事と直接結び付けています。それは受難の予告です。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、・・・」と弟子たちに告げたとあります。(マタイ16.21-28;マルコ8.31-9.1;ルカ9.22-27)。イエスをメシアと信じていた弟子たちは大いに動揺しました。メシアは「人の子」で神と等しい方と信じられていました。そのメシアが殺されるわけがない、これが人々の、弟子たちの確信でした。
ご変容の祝日の第一朗読はダニエル書です。そこには「王座が据えられ・・・」とあります。日本語では表現されていませんが、ヘブライ語では複数形です。「日の老いたる者」がそこに座しています。他の座は「人の子」のためと見るべきです。ご変容の記事を見ると「太陽のように輝き、服は光のように白くなった」、また「光り輝く雲」と表現されています。この時代、神はこのように表現されていました。それに、「天からの声」がありました。預言者たちが、「夢」や「幻」でしか見ることの出来なかった「神」をペトロ、ヤコブ、ヨハネは「イエス」において見たのです。しかし、事実、イエスの神性に触れても、弟子たちにとっては、これはまだ、信仰のほんの「はしり」となっただけでした。主イエス受難の際、身に危険が及ぶのを恐れ、主を見捨てているからです。
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示した山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。・・・『わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる』(マタイ28.16ss)」。マタイ福音書が伝える、「イエスが復活後、弟子たちと会い、使命を授け、昇天した山」はこのタボル山と見られています。この伝承はガリレアの共同体からのものです。ガリレアの弟子たちにとって、「タボル山」は特別のものです。イエスは復活後、エルサレムでも、ガリレアでも、弟子たちに、「復活したこと」、「いつも共にいること」を体験させました。そして、弟子たちが「パンを割くこと(聖体祭儀)」で、イエスとの出会いを確認できるようになりました。エルサレムの信者にとって、オーリブ山が「イエスとの最後の出会いの場」であったように、ガリレアの弟子たちにとっては、タボル山が「主イエスとの離別の場(主の昇天)」となったのです。
補足
その一: 「日の老いたる者(Ancient of Days)」をユダヤ人の間では「時間を超えるのも(theOne who is above time)」とか「日々から分離したもの(Divorced from Days)」と理解する学者がいます。
その二: キリストの御変容で聖地となったタボル山も、わずか30年、40年後にはローマからの解放闘争を起したユダヤ人が立て篭もり、戦場となりました。
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