シナイ巡礼登山に行ってきました。
前院長が着任してまもなく、シナイ行きの許可を願いました。すると、私の権限を越えているのでクストスから許可をもらうようにとの返事でした。私が赴任したときの院長はシナイ巡礼は院長権限だと言っていました。仕方なく、許可願いを書き、クストスを訪ねました。しかし、不在でしたので、副クストスに提出しました。副クストスは院長の許可があればそれで十分なのだがと言いましたが、署名入りの許可書を手にしました。
旅行代理店と最終打ち合わせの段階で、私の休暇の時にはツアーがないことが分かり、涙をのんで、あきらめました。それから5年。昨年のエジプト旅行で味を占め、ツアーに参加せずとも、シナイ巡礼は可能と判断し、時期を待っていました。しかし、暮れからイラク問題。戦争になるのか、どんな展開になるのか、予測が付かず、3月になりました。そして、私の休暇が始まる20日、米英軍のバクダット空爆があり、この週は戦況を見守るためエルサレムに留まりました。思いもよらず、バクダットが早く陥落し、イスラエル政府が警戒度を一ランク下げたので、復活祭八日間後の休暇を活用することにしました。
28日、朝6時、エルサレムを発ち、ターバーで国境を超えたのが12時半でした。旅行案内書では聖カタリーナ行きのバスがあるとありましたが、時期が時期だけに、運休でした。行くなら、タクシーしかないと言われました。60ドルの言い値を、途中まで相客を条件に、40ドルにし、聖カタリーナ修道院に向かいました。修道院には午後3時に着きました。前日の27日がオーソドックスの復活祭でしたが、ロシアの巡礼団の他、数組の宿泊客でした。お陰で、宿坊に宿を取ることが出来ました。
翌早朝午前2時、外に出てみたら、修道院駐車場は観光バス、マイクロバス、タクシー、乗用車でいっぱいでした。海岸沿いの観光地から、ご来光ツアーで賑わうのです。登山道は頂上に向かう光の帯でした。私の懐中電灯はエルサレムのバスセンターで買ったもので、単三二本の小さなものです。新月の夜、頂上まで保つか不安になりました。節約するしかないと、先を行くグループに追いつこうと急ぎました。多くのラクダ引きからは声をかけられましたが、無視して急ぎました。そして、石に躓いて転けてしまいました。物音で気づいたラクダ引きが「それ見たことか」と言わんばかりに笑い出し、「また転けるぞ。」とからかいの声をかけました。それではと、懐中電灯を点灯し、登ることにしました。
鞍部に着いた時、23年前の登山を思い出しました。ここには、井戸があり、ベドウインの少女が山羊に水をやっていました。ここからはきつかったです。案の定、電池が弱くなったので変えることにしました。カメラのフラッシュ用に電池を使えばいいと気づいたのです。ちょっとした休憩になりました。山頂に聖堂があります。あの時、ドイツ人学生グループとミサをしたその場所です。この日も、暗闇からドイツ語が聞こえました。安全な場所を確保し、また、暗闇を利用して着替えをしました。防寒具は用意するようにとありましたが、予測を超える寒さでした。この日のために残して置いた、恩人からのプレゼント、缶入り日本酒を飲んでも、歯がガタガタ、ガタガタ鳴るのが治まりません。気づいたら、目の前の山並みが白んできました(写真1:夜明け前2)。新月後の「月」が「明けの明星」に導かれるように昇っていきます(写真2:夜明け)。最高の場所を占めたのだと感謝しました。
突然、イタリア人が歓声を上げました。日の出です(写真3:日の出3)。闇は去り、光りの世界となりました(写真4:山頂の聖堂;朝日を浴びて)。日毎の営みですが、人を感動せます。生涯の思い出をつくり、人は日常の世界に戻ります(写真5:日の出を仰いで)。人々が去った後、朝の祈りをしていたら、小鳥たちが加わってくれました。アラビア語で「ガザム」、英語で、「サイナイ・ローズフィンチ」と呼ばれています(写真6:ガザム)。祈りが終わると飛び去っていきました。
シナイ山は峻厳な山です。登りは暗闇でしたので、気づきませんでした。下山しだして、こんなに厳しい登山道だったのかと心の縮む思いでした。鞍部で修道院への標識を見つけ、標識に従ったものの、登り道と違うようです。茶店がありません。人影もなく、厳しい下りです(写真7:ケルン)。それでも、岩間には草花がほほえんでいました(写真8:草花)。また、休んでいる人たちに追いついたときはほっとしました。そして、修道院が目に入りました(写真9:修道院)。登り2時間、下り1時間10分。朝食に間に合いました。
モーセは荒れ野の奥で「燃える柴」を見つけました。近づいたとき、神から呼びかけられ、使命を授かったところであり(写真10:燃える柴)、この時、神は、モーセの問いに答え、ご自分の名を「私はある。私はあるという者だ。(出エジプト3.14)」と明かしたところです。この言葉を、学者たちは「ヤーウエ」と解し、ユダヤ人は「アドナイ(主)」と呼んでいます。ヨハネ福音書では、イエスがユダヤ人との論争で、ご自分を「わたしはある」と言ったとき、ユダヤ人はその意味を理解し、イエスが「自分を神だとしている」として殺そうとしました。(ヨハネ8.58)。モーセは、民をエジプトから導き出し、山の麓に宿営しました。今でも、この辺りにはオアシスがあり、井戸があります。前回、オアシスに立ち寄ったことがありました。
モーセが山に籠もり、帰りが遅いので、民はアーロンに金の子牛を造くらせました。モーセが神から授かった律法の石の板を携えて帰ってみると、民は偶像を囲んで祭りの最中でした。モーセは怒って、その聖なる石の板を砕き、子牛を火で焼いて粉々にし、その塵を山から流れ下る川に投げたとあります。(申命記8−21:出エジプト記32章)。私は、勝手に、この川は左側を流れると決め込んでいました。見ると、右側に川床がありました。その日、ベトウインの親子が山羊の番をしていました(写真11:右側)。
補足説明
1:
2:
3:イコン館に興味深いイコンがありました。十字架に付けられたキリストの頭から、両手から、わき腹から血が流れ落ちています。聖母や使途ヨハネ、聖人たちがその血を浴びています。サン・ダミアーノの十字架に共通するものであり、あるいは原型かもしれません。
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