分離壁―ベツファゲ

6月1日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

 5月22日は、聖ラザロを記念しての、フランシスコ会ベタニア巡礼の日でした。この巡礼には参加できなかったので、27日、ベタニアへ行ってきました。
写真1:建設中
キリスト復活大聖堂(聖墳墓修道院)からオリーブ山の麓、ケドロン谷までは下りです。ここのゲッセマネからは上りです。ロシアの「聖マリア・マグダレーナ聖堂」、「主の泣かれた聖堂」を通りぬけ、ハガイ、マラキ両預言者の墓辺りがもっともきついところです。自動車通りに出て振り向くと、そこにはエルサレムがあり、神殿の丘に建つ黄金のモスクは朝日を浴びて金色に輝いていました。

その昔、ダビデ王が息子アブサロムの反乱で都落ちした時、「頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上っていった(サムエル記下15.30)」とあります。その頃は、まだ、神殿もなく、左手の「ダビデの町」に、建てたばかりの王宮が目立つ、小さなエルサレムでした。
写真2:遮る壁
「主の祈りの聖堂」を過ぎると、下りです。右手の先に、特徴あるヘロディオンが見えます。その手前がベトレヘムです。

「ベトファゲ聖堂」は「主のエルサレム入城」を記念する行列の出発地です。何回か来ています。しかし、その祭日には大勢の巡礼者、土地の信者が参加するので、聖堂には入らず、外で待っていました。今回は聖堂に入ろうとしましたが、鉄の扉には鍵がかかっていました。入れません。離れたところにアラブの青年が見えたので、声をかけたら、開けてくれました。

私たちの聖堂とギリシャの聖堂の間が旧道です。これまでは、ガラクタの捨て場でしたが、コンクリートミキサー車が修道院の裏庭に入っていきました。見ると、作業現場となっていました。
(写真1:建設中)。そして理解しました。修道院の裏庭を開放して、マンシオンを建てていると聞いていたのです。最近の問題は分離壁建設です。イスラエルは保安壁(security fence)と言っています。(参照:「分離の壁」2月1日)。

5月の半ば、衛星放送のデコーダーに問題があったので、購入した業者を呼びました。店はアブ・デイスにあると聞いていました。アブ・デイスでは分離壁建設抗議行動が盛んに行われています。そのため、修理のためにもって行った部品を、翌日、受け取るはずでしたが、一週間延ばされました。今でさえ、この状態です。分離壁が完成すれば、イスラエルの都合でパレステイナ人の出入は制限されるのです。この不都合を避けるため、ヘンス内に住居を移す人たちが多くなりました。当然の結果、住宅不足に拍車がかかり、家賃が沸騰しています。

フランシスコ会は、ベトファゲ修道院のため、敷地の一部を残し、ほとんどを開放し、70戸のマンシオンを建て彼らに提供することにしたのです。工事現場を離れて、ベタニアへの道に戻りました。すると、目の前を塞ぐコンクリート遮断壁が現れました。
(写真2:遮る壁)。驚きました。修道院前で、彼のアラブ青年に、ベタニアへ行けるかと尋ねました。行けるとのことでしたが。とにかく、近づくことにしました。見ると、この辺りの修道院の壁は取り壊され、分離壁手前のイスラエル軍パトロール道路供用のため、敷地は接収されていました。銃を持ったガードマン写真3:出入り口がいました。

作業現場は左手100メートル先でした。ガードマンにベタニアに行けるかと尋ねましたが、彼らには聖書の地名「ベタニア」は通じません。右手10メートル先に、幅2メートルほどの「空き」が見えました。
(写真3:出入り口)。ゲートと成るのでしょう。そこを抜けることにしました。左の十字架はギリシャ・ベトファゲ修道院のもので、右のフェンス越しの緑はフランシスコ会修道院、住宅建設中の敷地です。(写真:4ベタニア側)

壁を背にして見ると、見覚えのある大きなコンクリートの建物、オリーブ畑がありました。この道を下ればいいとすぐ分かりました。歩いてまもなく、目指すベタニア聖地が目に入りました。
(写真5:ベタニア全景)

ベタニアはラザロ、マルタ、マリアの里で、イエスのオアシスでした。ある日、イエスと弟子たち大勢を迎え写真4:ベタニア側て、マルタは気忙しく働いていました。マリアはイエスの話に聞き入っていました。マルタは堪えきれなくなり、マリアに手伝うように言ってくださいと頼みました。すると、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配り、思い煩っているが、必要なことは、ただ一つだけである。マリアは、その良いほうを選んだ。それを彼女から取り上げてはならない(ルカ10.41-42)。」とイエスに言われました。「人はパンだけで生きるものではない(ルカ4.4)。」とも言っています。生命の維持には食物が必要であり、家庭生活には主婦の役割が重要であり、社会での諸活動も人間の幸せを作り、維持するためには欠かせません。だからと言って、神との交わりを失うほどに没頭するなら、その結果は?と問題を投げかけています。

写真5:ベタニア全景また、過ぎ越し祭の六日前、マリアが・・・高価なナルドの香油を・・・、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったとき、ユダが「なぜ、・・・香油を売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と詰問すると、イエスは「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言ってかばいました。(ヨハネ12.1-8)。

ベタニア聖地はラザロの墓です。ラザロの死、埋葬、復活の舞台となったところです。(ヨハネ11章)。ラザロが病気になったとの知らせを受けても、イエスは動きませんでした。二日経って、ベタニアへ発ちました。ラザロはすでに死んでいました。道で、マルタはイエスを迎えました。主がここにいてくださったなら、兄弟は死ななかったと言いました。イエスは言いました。「あなたの兄弟は復活する」と。マルタは終わりの日の復活を信じていると言いました。その時、イエスは厳かに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、たとえ死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はすべて、永遠に死ぬことはない。このことを信じるか」と尋ねました。マリアも駆けつけて来ました。彼女が泣き、共に来た人々も泣いたので、イエスも涙を流しました。

写真6:遺跡そして、どこに葬ったのかと尋ね、墓に着くと石を取り除けるように命じました。マルタは「主よ、もう臭くなっています。四日目ですから」と言いましたが、イエスは「信じるなら、神の栄光を見る」と言い、大声で、「ラザロ、出てきなさい」と命じました。「写真:ベタニア全景」の中央がモスクで、この下が「ラザロの墓」です。左がカトリック聖堂、右がギリシャ聖堂です。その右に見える廃墟は、十字軍時代のベネデイクト会女子修道院で、避難塔でした。
(写真6:遺跡)

アブ・デイスのこの辺りでは、分離壁はベトファゲとベタニアを分断しています。しかし、いずれ、ベタニアはイスラエル側に組み込まれるとのうわさがあります。私たちにとっては聖地の一体性が保てるので期待したいところです。しかし、その分、パレステイナは領土を失うことになります。

写真説明
(写真1:建築中)中央の塔はオリーブ山頂のロシア女子修道院のもの。左下がフランシスコ会修道院、右が建築中のマンシオン。
(NB:写真をクリックすると大きな写真が出てきます)