テレビのドラマや映画がばかりではありません。離婚話、発病、事故、災害、身内の死・・・ある日突然襲われ、生きる力を失った人の事例がたくさんあります。
今年の三月、仲間四人がワデイ・ケルト(wadi・kelt)沿いの聖ジョージ修道院に巡礼に行きました。そこはエルサレムの東、エリコに近いギリシャの修道院です。行きは下りでしたが、帰りは登り。約束の場所には迎えの車が来ていました。そのわずか手前、若い兄弟が崩れるように倒れました。そして、まもなく、意識を失ってしまいました。一人は迎えの兄弟に救急車を呼ぶように駆け上がり、二人が倒れた兄弟を自動車道まで運び上げました。駆けつけたイスラエル救急隊員は容態を診て、ヘリコップターを呼び、アイン・カレムのハダッサ病院に搬送しました。心臓の一時停止、腎臓、肝臓の機能低下が続き、意識が戻ったのは一ヶ月が過ぎてからでした。命は取り留めましたが、歩行障害と重い言語障害が残りました。病状が安定したので5月、ハイファの病院に移り、リハビリに専念することになりました。
霊名がパドアの聖アントニオなので、その祝日、6月13日に聖墳墓修道院に呼び、祝いました。車椅子、歩行補助具を使っての移動でした。母国語のポーランド語、イタリア語、英語で片言の会話が出来るようになっていました。私たちは喜びました。そして、29日は聖ペトロ聖パウロの祭日、聖地管区(クストデイア)では助祭、司祭の叙階式の日です。彼は一年前、司祭に叙階されました。二十代の若い司祭なのです。祝い事が済み、ハイファの病院に戻りました。正確には、彼の意思ではなく、長上の決定でした。それからです。彼は部屋にこもり、自分にこもり、電話に出ず、見舞い客も会わず、「貝」となってしまいました。彼は病院に戻りたくなかったのです。エルサレムの修道院に留まりたかったのです。長上が彼の意向を知りながら、病院に戻したのなら、その理由はただ一つ、運動・言語リハビリの世話を「誰が」するかです。
一週間ほど前、退院させ、エルサレム本部修道院に戻しました。今日の話では、修道院内の養護棟でなく、修室に住み、地下の食堂まで階段の上り下りを歩行補助具で行き来しているとのことでした。これで問題が治まった訳ではありません。意図はともかくとして、ポーランドの母管区に休暇帰国したらと促しました。また、「貝」になってしまいました。
どのフランシスコ会管区にも共通していますが、宣教師を受け入れた管区は病気や事故で働けなくなった兄弟を本人の意に反して帰国させることはありません。してはならないことです。しかし、ひとりで生活できない場合、誰かの世話が必要です。そして、「どこで」、「誰が」世話をするかと言う問題が起きます。
彼の周りでは言語障害の故に聖地での宣教活動復帰は無理、ポーランドに戻っても、通常の司祭活動は出来ないだろうと見ています。意識が戻っただけ、これからの生涯、十字架上の大司祭キリストの苦痛を味わい続けることになります。ただ祈ることは、この境遇にあっても、司祭として生きる喜びを見出して欲しい、ただこのことです。
日本では年金問題、社会保障問題がこれかの政治問題です。国民のすべてが満足するような社会保障制度を確立して欲しいです。しかし、かりに、年金・医療制度が充実し、老後を安心して過ごせるようにとなったとしても、「ある日、突然」に見舞われたら、社会から、身内からの助けや励ましがあったとしても、結局は、自分一人で立ち向かわなければならない「こころ」の問題が残ります。
私自身を「彼」に置いたとき、「貝」になる訳は「自分で自分のしたいことが出来ない絶望」に陥る時です。エルサレムの修道院においても、ポーランドの母管区においても、人の助けを受けなければ生きていけない。心から世話をすると言われても、これが信じられない時、生き続ける意味を見失ってしまいます。
佐藤司教様が、以前、ご自身の司牧経験を話しておられました。「・・・なんでも一人でこなし、人の助けを必要としないと自他共に認めていた人も、最後は人の助けを借りた。神様の計らいは公平だ。」生まれて死ぬまでの人生、人に助けられての人生です。この真実に目覚め、生きる人には、永遠のいのちへの道が開けます。
私がかかわった老人ホームでの話です。嫌われ者のお婆さんがいました。洗礼を受け、ミサに与るようになりました。すると、「あの人と一緒に祈りたくない。」と陰口を聞くようになりました。そのお婆さんが養護室に移されたある日、突然、「ごめんね。」、「ごめんね。」と言い出しました。その数日後、亡くなりました。人生の大仕事、人との関係を修復して、天使たちに守られて、旅たちました。
また、こんな経験もあります。骨折がもとで痴呆が進んだお婆さんです。入院した姑を嫁さんは毎日のように見舞っていました。息子さんは仕事がるので、休みの日には見舞っていました。しかし、痴呆が進んで「貴方、誰?」と言われるのが悲しくて、嫁さんが用事を済ますのを車で待つ有様でした。ある日、病院の階段で嫁さんに会ったので、お婆さんに「今、嫁さん来たろう」と尋ねたら、「誰も来ん。」との返事でした。こんな有様でしたが、以前の悪いことは全部忘れ、私には「ハンサム」、看護の女性には「別嬪さん」と言い、最後の日まで、都都逸を歌っていました。痴呆でありながらも、世話する人との関係を最善に保ったお婆さんでした。よき死とは、世話をしてくれる人に感謝しながらの旅たちと気付きました。
補足
1:私の派遣期間は三年間です。私の更新願いを日本管区が許可し、こちらの聖地管区が承諾したとき派遣更新となります。その際、不都合があれば処置をとることが出来ます。
2:彼には内臓の疾患は見当たりませんでした。オーリブの下で休憩していた時、毒虫に刺されたのではないかと言われています。
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