「冬のソナタ」愚考 その三

3月22日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

まだ、ドラマを通して見ていません。まだ途中ですが、初恋の人、チュンサンとの思い出に生きるユジンと彼女に思いを寄せる、サンヒョクとミニヨンに興味を覚えました。ここでは、ユジンを過去の淵に沈み、未来へ踏み出せない女性と捉えています。

サンヒョクはユジンとは幼なじみで、ドラマが始まる高校生の頃は、友達から二人の仲は認められていました。そこへ、チュンサンが現れました。そして思いもよらないことが起きました。ユジンがチュンサンを好きになったのです。そのチュンサンは大晦日の夜、デートの約束の日、交通事故で死んでしまいます。サンヒョクは悲嘆にくれるユジンに付き添い、ユジンの立ち直りを静かに見守り、婚約するまでにいたります。しかし、婚約式の日、ユジンがチュンサンの似たミニヨンを見かけ、追いかけ、婚約式が流してしまいます。サンヒョクはユジンの心にはまだチュンサンが生きていることに気付きます。

ミニヨンはユジンに惹かれます。ミニヨンの恋人チェリンはこれに気付き、ミニヨンを引き止めたい一心で、ユジンを貶める先入観を彼に注ぎ込みます。ミニヨンは混乱し、ユジンを誤解します。まもなく、ユジンをありのままに評価できるようになり、彼女を愛するようになります。そして、二人だけになった山頂で、ユジンに迫ります。「僕には死んだ人を思い続けるのが愛とは思えない。未練たらしく自分を憐れんでいるだけでしょう。」「やめて。」「頼むから現実を見てください。彼は死んだのですよ。もういないのですよ。」「いい加減にして。何なのですか。何でそんなことを言うの。」「あなたが好きだから。僕があなたを愛しているからです。」

NHK月曜ドラマに「恋する京都」がありました。その第三話「鹿ケ谷かぼちゃは初恋のときめき」に似たようなテーマがありました。志乃(鶴田真由)は死んだ夫、太郎を忘れられません。圭吾(村上淳)は志乃に思いを寄せますが、芸妓であり、子持ちであること、それ以上に、太郎を忘れられないため、圭吾の愛を拒みます。そこに、50年前の恋人を探しに菊(淡島千景)が来ます。その恋人は圭吾の祖父でした。すでに故人です。菊に、探している人が死んでいることを伝えるべきかどうかで、志乃と圭吾で議論になります。志乃は菊に思い出として残しておきたいと言います。「後ろ向きや。ほんまのことをほんまのこととちゃんと見なければ。」「そんなことはおへん。」「今を生きているのではないか。ずっと死んだ太郎さんの思い出に生きていくのか。無理なことや。今を生きてほしいんや。」

その後、二人は、菊から圭吾の祖父との思い出があったから、今日まで生きて来られたと知らされます。それで、圭吾の祖父も菊に恋い心を持っていた証となる「しおり」を探すことになります。その最中、圭吾は志乃に言います。「たった一日の思い出がその人の人生を決めることがあるんだ。今、志乃さんがすてきなのも太郎さんとの恋愛があったからだろう。ずっと、太郎さんのことを忘れて欲しいと思っていました。忘れられるようなものではない。けど、私の気持ちは変わりません。太郎さんとの思い出をたくさん持っている志乃さんのことが好きなのかもしれません。」志乃の目が潤み、喜びに輝きます。

そしてもう一つ。数年前、イタリアのテレビドラマに「イエス」がありました。そこでの、イエスとマグダラのマリアとの出会いです。

マリアは売春で生きている女です。ある日、ことを終え、金をもらって外に出ると、姦通の現場を押さえられた女が引き立てられ、イエスの前に立たされます。イエスを訴える口実を作るために仕組まれました。人々は律法に従って「石打」の刑が下されると期待しました。答えを迫る人々に、「罪のないものから、石を投げなさい。」と言います。事件は終わりましたが、遠巻きの群衆の中にマリアを見たイエスは、近づき、「私についてきなさい。」と声をかけます。驚くマリア。その後、マリアは母マリアに自分が売春で生きて来たことを話します。母マリアは彼女をイエスに紹介します。そして、イエスに受難が迫ってきた頃です。イエスはマリアと話しています。イエスはマリアが売春で生活していたことを知ってのうえで、「私のいのち与える(愛する)。」「どんでもない。決して、そんなことを。」「神には人を変えることが出来る。弟子になりなさい。」「私にはなれません。」「私がお前を弟子にするよ。」マリアのほほが涙で濡れました。

ユジンや志乃は恋する人との思い出にこもり、過去の淵から這い上がることをしません。
マグダラのマリアは罪み深い過去にがんじがらめに縛られ、身動きできません。
ミニヨンと圭吾は死んだ人への思いを断ち切り、新しい愛に生きるように願います。しかし二人とも、ユジンが、志乃が、恋に生きたことが今のユジンであり、志乃であることを認め、受け容れます。

「キリストはカルヴァリオで十字架に付けられ、殺され、墓に葬られました。しかし、復活しました。神はおん子、救い主の死と復活によってあなたとの新たな交わりを持ちました。あなたが望むなら、そのとき、神はあなたを受け容れてくださいます。これが福音です。」

罪を告白し、神の許しを得て、人との新たな交わりを望む人を、このように、励ますようにしています。