キリスト復活大聖堂前庭・悲しみの聖母聖堂 |
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2月5日 |
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アンジェロ 春山 勝美 神父 |
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キリスト復活大聖堂前庭(atrium)全景写真です。(写真1:前庭)手前に見える礎石は5連アーチのポルテイコ(portico:柱廊玄関)のものです。ポルテイコは結界で、俗界と聖域とを分けるものです。鳥居と見ることが出来ます。 イスラム教徒がエルサレムを再占領し、多くの十字軍建造物は破壊されましたが、キリスト復活大聖堂は破壊を免れました。しかし、キリスト教会の祭儀使用、巡礼者の訪問を管理するために12あった出入り口を一つにし、他を塞いでしまいました。これは使用税を取りやすくするためで、オットマントルコが滅びるまで続きました。 15世紀、巡礼者が残したスケッチがあります。(写真2:スケッチ15世紀)鐘楼上部を除けば、ほぼ、現在目にする建物配置です。しかし1619年に描かれたスケッチでは鐘楼上部、左右のオーソドックス建物はありません。(写真3:1619年スケッチ) 16世紀、オットマントルコがエルサレムを完全支配するようになりました。1524年、フランシスコ会は最後の晩餐修道院(ダヴィドの墓)を没収され、追放されました。そして、1549年、キリスト復活大聖堂は鐘楼上部を失いました。 鐘楼の対は十字軍が設けたカルヴァリオ登り口です。出入り口が塞がれた後、踊り場が「悲しみの聖母聖堂」となりました。通称「フランキ」と呼んでいます。(写真4:悲しみの聖母聖堂、写真5:カルヴァリオ入り口) 大聖年準備で巡礼が盛んになり、また、イスラエルで働くフィリッピン人が多くなった頃、しばらく使われていなかった聖堂で英語ミサが行われるようになりました。そして、まもなく、聖体を顕示するようになり、礼拝に訪れる人もありました。しかし、インテイファーダが激しくなり、巡礼者や旅行者が激減しました。それに、聖堂使用についてギリシャと摩擦が生じ、一昨年の暮れ、聖堂使用を止めました。しかし、昨年、聖堂管理が聖墳墓修道院に託され、私たちは、週に一度、ミサを捧げる義務を負いました。このところ、2週続けて私が担当となり、写真は、その折、撮ったものです。 さて、前庭ですが、地下は貯水池でした。(写真6:地下平面図)この辺りは石切り場だったので、その跡地を利用した貯水池が多くあります。十字架発見の聖堂もその一つです。しかし、前庭地下右半分の貯水池は見事なものです。南側(ポルテイコ寄り)に小さな浄化槽があり、雨水はまずそこに入り、溢れた水が本貯水槽にたまる仕組みです。本貯水槽にはハドリアヌス皇帝のローマ神殿で使われた建築材が再利用されています。写真「南からの北壁」はローマ神殿南壁です。(写真7:南からの北壁、写真8:地下北から南) そして、塞がれた入り口前に「板で覆われたところ」がありますが、そこは、英国貴族オウビニのフィリッポ(Phillip d’Aubigny)の墓です。彼は皇帝フレデリック二世に伴い、1228年、エ ルサレムに来ました。他の十字軍王の墓は、1810年、ギリシャオーソドックスによって暴かれましたが、その頃は石で覆われていたので、暴挙を免れました。 聖へレナはローマ神殿貯水池で十字架発見し、コンスタンテイヌスは特定された「カルヴァリオ」に「キリストの死と復活の陵(Mausoleum)」建設し、信仰の殿堂としました。使徒たちが宣教した信仰、「キリストの死と復活による救い」はこの地で起こり、この地から広まったとの聖地となりました。そして、この地への巡礼が始まりました。世界からの巡礼の波はイスラム教徒の妨害があっても止まりませんでした。破壊されれば再建し、巡礼が禁じられれば十字軍を起こし、巡礼の道を確保しました。十字軍の敗北で軍事面での安全が期待できなくなっても、巡礼者の跡は途絶えませんでした。聖地は1000年以上、イスラム教徒の支配の下にあるのです。にもかかわらず、「キリストの聖地」を保持できたのは世界の信仰者の信仰であり、異教徒の支配者のもとで「信仰者の権利」を擁護するために、時には殉教し、時には外交努力をし続けた先輩たちがいたからです。 お願い:写真の無断使用をしないでください。特に、「スケッチ15世紀」、「1619年スケッチ」、「地下平面図」、「南からの北壁」、「地下北から南」はVirgilio C. Corbo著「Il SANTO SEPOLCRO DI GERUSALEMME」からのものですので、ご配慮お願いします。 |