訪れの時を知らなかった

(10月14日)

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

都が近くなったとき、イエズスはそれを見て、・・・お泣きになった(ルカ19:41-44)。

パレステイナの人たちは国をつくる機会を失ったと思います。イスラエルの民は出エジプトの時から、約束の地、今のイスラエルに住み着くことを夢見てきました。イスラエルがどんな歴史をたどったか振り返ってみ見ましょう。

カデシバルネアから北進し、ヘブロンを経て約束の地を攻略するようにと言われたとき、先住民を恐れ、モーセを殺してエジプトに引き返そうとしたため罰を受け、40年間、荒れ地をさまよいました。この間、イスラエルはモーセと後継者ヨシュアの指導のもと戦闘的な民となり、ヨルダン川を渡り、エリコを落として、約束地に入り、定住することが出来ました。しかし、ダヴィデが敵対する諸民族を征服して12部族連合の王として君臨し、息子ソロモンがダヴィデ王国を引き継いだわずかな期間を除いて、部族間の争い、近隣の民族との戦争はあとを絶ちませんでした。そして、アッシリア、バビロン、ギリシャ、ローマの巨大な帝国に制圧され、紀元135年、ローマ皇帝ハドリアヌスはエルサレム、ユダ、イスラエルの呼び名の使用を禁じ、エルサレムをユリア・カピトリアに、ユダ、イスラエルをパレステイナと呼ぶようにし、この地から彼らを追放してしまいました。しかし、追放されても、この地に戻るユダヤ人は跡を絶たず、ビザンチン時代、アラブ時代、十字軍時代、セルジュックトルコ時代、そしてオットマントルコ時代と異なる支配者のもと、いつかユダ・イスラエルの再興をと夢を追っていました。

そしてやっと1948年、独立戦争を起こし、国連がイスラエル国を承認した数時間後、近隣のアラブ諸国は新生イスラエルを殲滅せんと四方から一斉攻撃を仕掛け、イスラエルはこれを撃退して、イスラエル国家を確立しました。その後も三回、アラブ諸国と戦争し、国土をほぼダヴィデ王国並にしました。第四次中東戦争後、エジプト、ヨルダンから国家としても存在を認められ、友好関係を確立しました。そして、最近ではヨルダンが放棄したヨルダン川西岸地区に住むアラブ人との関係改善に努めてきました。パレステイナ国家承認の一歩手前までたどり着きました。

最後のハードルはエルサレム旧市街の帰属問題でした。ここにはユダヤ教徒にとっての最も神聖な聖地、神殿(西の壁)があり、イスラム教徒にとってはマホメットゆかりのモスクがあります。どちらも異教徒の支配下に置きたくないとの悲願があります。そして、この両者とも他宗教との共存、並存を許しません。アメリカの仲介で和平交渉が進められてきましたが、最終案は、私の憶測では、神殿の丘の支配権を双方が放棄することだったのではないでしょうか。これには双方に強い反対意見があり、足踏みしているとき、神殿の丘は手放さないと主張する前政権政党Likudの指導者シャロンが神殿の丘を訪問したことで、神聖なモスクを含む旧市街の返還を叫ぶ群衆がモスクを巡回するイスラエル兵に投石し、今回の悲劇となりました。

加えて、このエルサレム旧市街帰属問題の他にアラブ人のもとではイスラエル人の安全が保障されないと言う明らかな現実が起きてしまいました。4000年の歴史を通して、民の安全は自分で守らなければならないとの信念があります。攻撃されればこれを撃ち破り、とことん無力化にするというものです。投石する子供一人一人に、また、群衆一人一人にどんな政治的意図があるのか分かりません。しかし、投石がイスラエル側にいやしがたい憎しみと、復讐心を煽りましたし、これを受けて、パレステイナ側も負けず劣らずイスラエルに対する憎しみ、復讐心が増長したことも間違いありません。投石から始まった暴力にイスラエル兵のゴム弾発射、これに応戦する暫定自治区の警察。警察署に対するミサエル攻撃。群衆の暴力行為を制止できない暫定自治政府は統治力を失ったと言うのがイスラエルの見解です。

そもそも和平交渉はイスラエルの安全保証が発端であり、目標でした。最近の事態は力で押さえ込むしか安全の保障がないといつか来た道に戻り始めました。一見なんでもない投石事件が偶発事件でなく、裏で糸を引く組織的事件と見えてきました。パレステイナ側にはイスラエル駆逐を叫ぶ武闘派が健在です。ハマスです。5月、南レバノンからイスラエルが撤退したのはヒスボラが競り勝ったのだと見、彼らに負けじと勢いづいています。パレステイナ暫定政府がハマスを押さえ込み、解体できるかどうかがこれからの見所です。