フラフランシスカン霊性研究会講演集
坂口昂吉
本書は、近年、フランシスカン霊性研究会でなされた講演を収録したものである。各篇に共通な題目は、アシジの聖フランシスコを中心とし、その周辺に及ぶものである。主として霊性に関する作品であるが、神学や歴史さらには音楽の研究も含まれている。したがって同一対象に対する多角的追求と言えるであろう。なお執筆者が各々一篇づつとは限らず、一人で二篇ないし三篇を書いている場合もあるが、これは単に講演を行った回数によって生じたことである。
アシジの聖フランシスコが、諸聖人の中でも傑出した人物であるのは言うまでもない。ただこれく.らいの大物になると、かえってその偉大さがどこにあるのか分からなくなってしまう嫌いがある。それを突き止めるには、大勢の研究者が彼を囲んで論じるのも有力な手段であろう。だが残念なことに、現在までそのような試みは、日本では皆無であった。それ故、本講演集は画期的なものである。
およそキリスト教の中には、超越的な志向と内在的な志向がある。前者はこの世を無限に越える神、すなわちキリストの神性を探求するものである。後者はこの世の万物の中にある神の痕跡、またはキリストの人間性を追求するものである。この二つの志向は、旧約・新約両聖書の中に含まれていた。そしてすでに占d代教会は、幾つかの公会議において、神の超越性も内在性も、あるいはキリストの神性も人間性も肯定的に定義していた。神の超越性すなわちキリストの神性の方は、すでにキリスト教古代及び中世初期において、信者たちの信仰生活の中に見事に生かされていた。天上の栄光ある支配者、王、将軍としてのキリストのイメージがそれである。
しかし他方、神の内在性すなわちキリストの人間性は、せっかく信仰箇条の中に謳い上げられながら、人々の信仰生活の中ではなかなか生かされなかった。すなわち真の神ご白身が真の人間となって、動揺し苦悩する魂と弱々しい肉体をもって、地上を歩まれたということは、理解しにくかったのである。この生身の人間キリストを、信仰生活の中に生かしきったのは、中世後期の人、すなわちアシジの聖フランシスコをもって先駆とするのである。馬小屋の中で生まれた幼児キリスト、貧しい人々と共にあったキリスト、ハンセン氏病者と共に悩むキリスト、そして十字架上で悶え苦しむキリストを、初めて信仰生活の中に据えたのは聖フランシスコであった。
ここに近代における人間の尊厳という理念の起源がある。もちろん聖フランシスコは、神の内在性を重視し、キリストの人間性に重きを置いたといっても、神の超越性の信仰を忘れたのではなかった。それは神の内在性の信仰と共に併存したのである。そしてこの併存こそ、真のキリスト教のあるべき姿なのである。残念ながら近代人、殊に現代人は、神の超越性を忘れ、神の内在性のみを求めたのである。人間はもちろん尊いものである。だがその尊厳は、彼がひたすら神を信仰し、真の人間であるのみならず真の神であったキリストに従い、神と人との仲介者である教会を尊ぶ時にのみ成り立つのである。しかるに近代の歩みは、16世紀の宗教改革において教会を捨て、18世紀の啓蒙主義においてキリストご自身を忘れ、19世紀の自由主義と社会主義において神の存在を否定し去った。ここに人間の尊厳の理念は、人間を不気味な巨人、全宇宙の孤独な独裁者とする源泉となってしまったのである。もちろん現代人のすべてがこのような弊害に陥っているとは思われないし、まして近代人の多くはこのような思潮と無関係であったと考えられる。しかし歴史の流れを探れば、神なき人間中心主義の高まりを認めざるをえないであろう。
このような時代にあって、我々がぜひとも立ち返らねばならないのは、超越的な神と共にある人間キリストに従ったアシジの聖フランシスコの精神である。このささやかな講演集が、さまざまな角度からのアプローチであるとはいえ、すべてに共通している目標は、聖フランシスコの生きた、キリストにおける神と人間の共存という理念なのである。
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