マルコ・ダヴィアノ神父の列福
2003年4月27日

在ウィーンの吉野さんからの投稿です。

 4月27日に、カプチン会士のマルコ・ダヴィアノ神父(写真No1)が列福されます。 マルコ・ダヴィアノ1600年代のヨーロッパで活躍した人で、日本ではほとんどなじみがないでしょうから、この機会に紹介したいと思います。

 マルコは1631年11月17日、北イタリアのアヴィアノで、父マルコ母ローザの間に、クリストフォリ家の長男として生まれた。クリストフォリ家は裕福な商家で、信仰深い一族であった。やがてマルコは、当時約400人の学生が在籍していたイエズス会経営の全寮制の学校に入った。当時、トルコ軍によって、キリスト教徒の虐殺や略奪が頻繁に行われていたので、マルコも他の少年と同じように、十字軍への憧れが強かったという。キリストの教えを伝えるということに強い希望を持っており、殉教しても構わないと思っていたそうだ。彼は非キリスト教徒を改宗させるという目的を心に持ち、そのためのミッションに参加するために、この学校を去った。

 マルコは、一人の同志の分も費用を負担したので、このミッションが終わるころには無一文になってしまった。何も持たず空腹だったので、一片のパンを恵んでもらおうと、訪れていたイストラ半島のコペルにあったカプチン会修道院の門を叩いた。これが彼の一生を決めることになったと言っても過言ではなかろう。マルコの一族の一人が、ここで司祭として働いていたので、彼はすぐに帰らずにしばらくの間、その司祭のお供をした。修道会や修道士の働きを知るにつれて、自分もここに入りたいとの気持ちが強くなり、その年のうちに(1648年11月21日)入会してしまった。

  写真21655年9月18日、めでたく司祭に叙階されたが、説教と
告解を聴く許可をもらえなかった。彼のあまりにも控えめな態度が災いし、誰一人として、彼が説教壇に上るのにふさわしいと思わなかったのだ。

 1664年の9月、33歳になってようやくマルクスは説教をする資格を得、説教壇に上ることができるようになった。16年かかって彼の信念は実を結んだ。彼は虚栄心というものをまったく持っていなかったので、説教の時に、機知に富んだ話し方をするようなことはなかった。すべての人に理解してほしかったし、一人一人の心に届けたかったのである。教育のある聴衆を前にした時はラテン語も交えて話したが、ほとんどの場合はイタリア語のみを使い、わかりやすい言葉で説教した。

 その後ヨーロッパ各地を渡り歩いたのであるが、そのあちこちで、マルコ神父による数々の奇跡が伝えられている。13年間も寝たきりだった修道女を歩けるようにした話、長いこと子供に恵まれなかったハプスブルク家の大公カール・フォン・ロートリンゲン夫妻に子供を授けた話、皮膚が樫の樹皮のようだったハンセン病患者を治した話等々・・・。マルコによって治癒された患者たちによってミュンヘンのカプチン教会に奉納された松葉杖は150本にものぼり、目撃証言の調査を通してまとめられた「奇跡の書」には、マルコが行なった391件もの治癒が記録されているという。また、1680年10月9日の午後5時頃、ドナウ川沿いのある教会で説教を行なった時に、マリア像が突然天に目を向け、それから説教壇にいるマルコを見たという出来事が起こった。そこにいたすべての人々はそれを目撃した、という話も残っている。行く先々で人垣ができ、マルコが説教をするというと、3万も5万も人が集まった。リヨンでは実に20万もの人が集まったという。告解部屋は、昼といわず夜といわず、空くことがなかった。だから彼は、真夜中にしか休みをとれなかった。 写真3

 1683年のトルコ軍によるウィーン包囲の時には、競争し、反目し合ってる各分隊を和解させ、部隊から部隊へと歩き、兵士たちを元気づけた。すべての者が彼の来訪を喜び、一緒に祈りを唱えた。彼は買収されていた軍の食料品供給者を辞めさせ、伝染病にかかった兵士たちを助け、将官たちの調和をはかった。

 トルコ軍を追い払い、またもとのように平和な日々が戻ってからも、度々こじれた教皇と皇帝の仲を調停するために、マルコは何度もウィーンに来ている。しかし、1699年の訪問が最後となった。同年8月13日午前11時、マルコ神父はウィーンのカプチン会修道院で、皇帝とその妻の立ち会いのもと、息を引き取った。遺体は4日間カプチン教会に安置されていたが、ウィーン市民が殺到したので、それをうまくさばくために軍隊を出動させなければならなかったという。その後、同教会内右側の脇祭壇に埋葬された
写真No2。写真No3は祭壇の前の部分のアップ。名前はドイツ語表記されている)

 皇帝レオポルトT世は、マルコ神父を列福させたいと思い、神父の思い出の品を保管するなどしていたが、神父の死に続く戦争の混乱の中で、この計画は忘れ去られた。何世紀もが過ぎた1933年、トルコ包囲からのウィーン解放250周年に際して、再び彼の功績を讃え、記念像を建て列福の準備を進める計画がなされた。記念像
(写真No4)は、1935年6月9日、政府と国内外の来賓立ち会いのもとで厳かに序幕された。
写真4
 
以上がマルコ・ダヴィアノ神父の一生を簡単にまとめたものです。記念像は、ウィーンのカプチン教会(日本語のガイドブックでは、「カプツィーナー教会」と表示)の入り口と皇帝納骨堂の門との間にあります。列福のための手続きは継続して行われていたのですが、調査の内容がきわめて広範囲に渡り、遠くまでばらまかれている遺品(筆記されたもの)を再び審査し直すのに時間がかかったそうです。神父の死後300年を経て、この度ようやく列福となったことを心から嬉しく思います。
イエズスを初め、このような聖人や福者の生き方を見習い、自らの生活を見つめ直す四旬節にし、そして復活祭を祝いたいと思います。(2003年4月17日聖木曜日)

※写真No2、No4は筆者撮影。No1、No3はカプチーナー教会の冊子と絵葉書より転載。(写真をクリックすると大きな画像が出ます)

在ウィーン:吉野留美 rumiyoshino@hotmail.com