最初は十人から二十人ぐらいを想定していたので、何とか教会に泊めてもらい、交通手段もボンゴ車を二、三台借りれば安く上がると考えていたのですが、人数が増えたため止むを得ず貸しきりバスと安いビジネスホテルを利用することになりました結果的にはいつもみんな一緒に行動でき、祈りや分かち合いが出来て良かったと思っています。
今回の平和巡礼で私の心にあった願いは「キリストの平和」でした。日韓関係はこのところだいぶ好転してきているようですが、このことを一番望んできたのは在日の韓国朝鮮の人々だと言っても過言ではないでしょう。ちなみに韓国の人は在日の人に対して偏見を持っている人が意外に多いのです。
私たちはまずKKC(コリアン・クリスチャン・センター)で生野地域でのキリスト者たちの活動の歴史を学びました。生野から全国的な取り組みとなったものに、在日の人々の人権回復のための「指紋押捺反対」の運動とか、識字教育のための「オモニハッキョ」(母親教室)とかがあります。
生野教会には予定の時刻に到着しました。おそらく巡礼団の一行は、どんな人たちがどんな形で迎えてくれるか不安だったに違いありません。しかし、私たちが教会の門を入るや否や、大きな歓声と拍手が沸きあがりました。たくさんの信者さんが私たちを出迎えてくださったのです。日本語と韓国語の挨拶が飛び交いました。「洗礼を受けてキリストと一致したあなたがたは、皆キリストを着ているのです。そこにはもはやユダヤ人もギリシャ人もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・2)。パウロの言葉が文字通り実現しているように思えました。
六時からのミサは平日なのに主日のように聖堂が一杯になりました。カリスト神父さまが司式をしてくださり、ユン神父さまと私が共同司式をしました。ミサは日本語でしたが、聖歌は韓国語、福音と主の祈りは両国語で行われました。説教は「ぶどうの木」のたとえからキリストにつながっている命の素晴らしさについてカリスト神父さまが話され、ユン神父さまが通訳してくれました。ミサが終わり、香部屋に戻ってきたとき、カリスト神父さまが、「私たちはあまり打ち合わせもしなかったけど、聖霊がちゃんと導いてくださいましたね」といわれたのが印象的でした。
晩餐会も本当に心温まるもてなしでした。各テーブルには日本食と韓国食が準備してあり、通訳をしてくれる人もいてくださって、至れり尽せりでした。食事中二人の方が信仰体験を分かち合ってくださいました。そのうちの一人は韓国で生まれ育った日本人で、戦後すべての財産を奪われ、命からがら帰国した方でした。信者であった奥さんと結婚するために洗礼を受けられても、長い間恨みを捨て去ることができなかったそうです。生野に来て重い病気にかかり入院していたとき、韓国人のシスターが見舞いに来て、ご自分で作った人形を下さり、早く病気が良くなるように一緒に祈りましょうと約束し、その後もたびたび見舞いに来てくださったとのこと。結局病気だけでなく心もいやされたこの方は、それ以来シスターを通していただいた神さまの恵みを他の人々にも伝えるようにつとめてこられたそうです。
新生への歩みを確かめる
二日目は京都の日本二十六聖人の殉教の足跡をたどりました。実はこの殉教も、韓国と不思議な関係がありました。豊臣秀吉は天下統一を果たした後、朝鮮、中国、フィリピンへと外国侵略に野望を燃やしていました。一五九二年壬申倭乱(日本では文禄の役)の翌年ペトロ・バプチスタと他のフランシスコ会の同志たちは、フィリピンの平和使節として秀吉に面会しました。この時、既にバテレン追放令を出していた秀吉は貧しい身なりの修道士たちに好意を示し、京都の妙満寺跡に住む許可を与えました。四〇〇年後の今日、私たちが訪問した「フランシスコの家」がまさにその場所だったのです。私たちは殉教者たちに思いをはせてミサを捧げました。イエズス会が保管しているある資料には、もっとも若いルドビコ茨木とその父パウロ茨木、叔父のレオン烏丸は壬申倭乱の時に連れてこられた韓国人だったと記されています。
私たちはさらに豊臣秀吉を祀っている豊国神社のすぐ近くにある「耳塚」を訪問し、ロザリオの祈りを捧げました。ここは秀吉軍が、戦果の証拠として秀吉に献上した朝鮮の人々の耳や鼻を後に埋葬したところだとのことです。このいわれを知っている日本人はほとんどいないと思います。私は韓国人も遠い昔のことだからあまり知らないだろうと思っていました。ところが尋ねてみると、知らないと答えた人は一人もいなかったので、歴史教育の違いを改めて痛感しました。
三日目は再び大阪に戻り、現代日本の教会の姿を見てもらうことにしました。最初に司教座聖堂玉造教会に行きましたが、去年一年間ソウルで韓国語を勉強された高畑神父さまが駆けつけてくださり、一緒にミサを捧げました。その後、司教館を訪ね、松浦司教さまにお目にかかり、五年前の地震以来取り組んでおられる大阪教区の新生計画について話していただきました。その中心は、経済的に復興することではなく、キリストのようにもっとも貧しい人、苦しんでいる人と共にキリストの新しい命を生きることです。そのために、家をなくした独り暮らしの高齢者、ビザがなく行政の援助から外された外国人労働者、地震の前から路上生活をしていた人々などを支援することになりました。日本国内だけではなく、世界各国のカトリック教会から送られてきた援助金は、すべてこれらの人々のためにつかわれました。また、地震の被害をこうむった神戸地区の教会に対しては、大阪教区内の他の地区が姉妹教会の縁を結んで助けることにしました。具体的には各小教区は今まで積み立ててきた貯金の50%と年間予算の大部分を拠出し、地震にあった教会の痛みを分かち合ったというお話をうかがいました。
午後はまず天王寺教会を訪問しました。この教会は信者数はそれほど多くはありませんが、サレジオ会の星光学園高校に併設された小教区で、教育を通して社会に貢献してきました。主任神父さまは八十歳になられる山口神父さまです。
神父さまは長い召命の道を話してくださいました。小神学生の時に韓国人の友人がいて、今はプサン教区で働いておられるはずとのことでしたが、当時はみな日本名を使わされていたので、神父さまの記憶にあるその人の名前も日本名でしたから、どの方のことか私たちにはわかりませんでした。
次に阿倍野教会を訪問しました。この教会の特徴は、一言で言えば国際的共同体です。在日韓国人はもとより、一九七〇年代ころからフィリピンをはじめブラジル、ペルーなどからの人たちが増えて、若いスペイン人のミケランジェロ神父さまはその人たちのためにスペイン語とポルトガル語のミサをあげているそうです。信者の中には日本語教室を開いて奉仕している人もいるとのこと。レジオ会員が中心となって、病人や独り暮らしのお年寄り訪問、からだの不自由な人たちのミサの送り迎えなど活発な活動もされているということで、大阪教区の新生計画が実践されている姿を確かめることができました。
最終日、朝から小雨が降っていました。最後の訪問地は釜ケ崎でした。ここには二万人近い人が住んでいて、そのうちの多くの人は職がなく、路上生活を余儀なくされています。毎年野宿している人のなかから百人近い人が亡くなっているとのことです。私たちが訪ねた「ふるさとの家」は、ここに住む人々のために昼間安心してつかえる憩いの場を提供しています。
ここで十年近く働いてこられた本田神父さまは、高齢者が人間らしく生きていけるように、彼らと一緒になって行政に対して仕事を提供するよう働き掛けておられるとのことでした。私の意図は、経済大国と言われる日本の底辺の場で働くキリスト者の姿を見てもらって、韓国からの巡礼者に何かを感じ取ってもらいたかったわけです。
最後の分かち合いの中で、生野教会をはじめ、司教さまや神父さま方、信徒の方々と出会い、親しく交われたことの喜びや、互いに祈りあう約束を交わしたこと、また今後、姉妹教会のようなつながりがもてたらという希望などが語られました。
キリストご自身こそ、私たちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにした方です。キリストはご自分の体によって、人を隔てていた壁、すなわち敵意を取り除き、平和を実現されました(エフェソ2・14参照)。
釜山・中村 道生OFM
|